人間機械学習

東京を訪れるたびに、自分は人間なのか、人間に近い機械のようなものなのかがわからなくなる。

 

高校生の時は毎週のように品川渋谷を歩いていたが、当時の僕にとって東京都はまさにコンクリートジャングルと顔のない人びとそのもの。何か一つの大きな実体のようなものだった。

 

すれ違う人々の中に様々な世界を見出していたのだけれども、それは人間観察というよりも少し複雑な形をした自己内省。言ってみれば世界には自分しか存在していなくて、人も建物も何もかもが自分の分身。東京に挑むには自意識が強すぎたのかもしれないし、東京なるものに挑んでいたから自意識がそうも発達してしまったのかもしれない。

 

 

最近実家に帰るたびに思う。東京をもう少し実体として見ることが出来るようになった。通り過ぎる人々はしっかりと「他人」だし、あふれ出るお店は全て健全な経済活動である。

 

何かぼんやりとした総体のようなものが、少しずつはっきりと見えるようになってきて、過去の記憶と有機的に結びついたりする。

 

あの服は最近流行ってるし、あの店はもうそろそろブームが過ぎ去ってつぶれるかもしれない。サラリーマンというくくりはあまりにも雑だし、カップルは全員が疑似恋愛妄想中ではないのだろう。

 

こういうことを人は情報処理と呼ぶのだと思う。

 

画像処理だか、音声処理だか、深層学習だかなんだか知らないけれど、確実に僕は東京を処理できるようになっている。何よりもの進歩は、処理できないものを処理できないもとして処理できるようになったことだろうか。

 

少しだけ落ち着かないのは、認識全てが情報化されてしまうことへのロマンチックな抵抗感を捨てきれないから。あと少し愚かでいたいという、情けない現実からの逃避。