無能上等

人を無能有能と切り分けて楽しむ風潮がある

 

きっと僕は無能

 

ちょっとばかし経歴があっても、自分のことだもん。自分でわかる

 

今まで逃げてきたこと、隠してきたこと。たくさんある

 

頑張ったことより頑張れなかったことの方が多い

 

本当はそういう反省を生かして、次は頑張ろうってなるべきなんでしょ

 

でももう疲れた。みんな頑張ってる中でこんなちっぽけなことで疲れている自分につかれた

 

だからもうやめよう。ぜんぶやめやめ

 

把握的思考から没入的思考へ。システムではなく有機体の中へ

 

人生を探究する。徹底的に

人間機械学習

東京を訪れるたびに、自分は人間なのか、人間に近い機械のようなものなのかがわからなくなる。

 

高校生の時は毎週のように品川渋谷を歩いていたが、当時の僕にとって東京都はまさにコンクリートジャングルと顔のない人びとそのもの。何か一つの大きな実体のようなものだった。

 

すれ違う人々の中に様々な世界を見出していたのだけれども、それは人間観察というよりも少し複雑な形をした自己内省。言ってみれば世界には自分しか存在していなくて、人も建物も何もかもが自分の分身。東京に挑むには自意識が強すぎたのかもしれないし、東京なるものに挑んでいたから自意識がそうも発達してしまったのかもしれない。

 

 

最近実家に帰るたびに思う。東京をもう少し実体として見ることが出来るようになった。通り過ぎる人々はしっかりと「他人」だし、あふれ出るお店は全て健全な経済活動である。

 

何かぼんやりとした総体のようなものが、少しずつはっきりと見えるようになってきて、過去の記憶と有機的に結びついたりする。

 

あの服は最近流行ってるし、あの店はもうそろそろブームが過ぎ去ってつぶれるかもしれない。サラリーマンというくくりはあまりにも雑だし、カップルは全員が疑似恋愛妄想中ではないのだろう。

 

こういうことを人は情報処理と呼ぶのだと思う。

 

画像処理だか、音声処理だか、深層学習だかなんだか知らないけれど、確実に僕は東京を処理できるようになっている。何よりもの進歩は、処理できないものを処理できないもとして処理できるようになったことだろうか。

 

少しだけ落ち着かないのは、認識全てが情報化されてしまうことへのロマンチックな抵抗感を捨てきれないから。あと少し愚かでいたいという、情けない現実からの逃避。

【怒る】

誰かに対して「怒る」という行為をしたことがあるだろうか

 

この「怒る」という行為。今一秒考えたところ二種類に分類できた。

 

1. 怒りの放出。感情表現としての「怒る」

2. 教育的意図から行われる操作的な行為としての「怒る」

 

二つの言葉が同じ単語に詰め込まれていることで、多くのコミュニケーション不和が引き起こされている気がする。

 

誰かに怒られて、そんな言い方はないのではないかと憤りを覚えた時。

 

それは「あなたが変われ」という意味の「怒る」だったのか、「俺はむかついたぞ」という意味の「怒る」だったのか。

 

前者に対する「私」の心持は(かなり理想化された環境においてだが)、自分がしてしまった行為への反省であり、次のステップへの改善へと思考を伸ばす。

 

しかし後者の類の「怒る」に出くわしたとき、「私」は自分の行為を恥じることはない。たまたまそれに対して不快感を覚えた人がいただけだ。むしろ大切になるのは余裕をなくしているその人への共感であり、誰も悪くない中で何か悪いことをしてしまったという行き場のない申し訳のなさと向き合うこと。

 

このパターンで両者が心に余裕をなくしていると、泥沼も泥沼。

 

 

この不和が上下関係の中で生まれると事は少し複雑になる。

 

上司は全てのコミュニケーションにおいて教育的意図をもって部下と接しているのか、という問題。

 

部下からすればそのように見えることが多いのかもしれない。1女と3男は何かと付き合うものである。

 

しかし上司だって人間だ。日常に追われ余裕をなくし、感情のコントロールがきかなくなることもあるだろう。

 

しかし上司から食らった怒りは、自らの欠点への指摘として捉えられるだろう。

 

上司の忙しさに共感する部下など、それはもはや部下なのか。部下の余裕のなさをフォローするのが上司ではないのか。

 

「あの先生最近受験学年もって忙しいから、あんな風に切れちゃうのも仕方ないよね」

 

そんなことをいう叱られ高校生は少ない。

 

 

一つ大事なことは

 

怒られたとき、下を向いたり血圧をあげる前に

 

相手の目を一瞬のぞき込むことなのかもしれない(とりあえず謝罪謝罪)。